2月号を読んでからの追記の追記^^;

ニュータイプ2月号の展開は…色々あって私もネタバレ感想に追記したくらいなのですが、何回か読んでいるうちに、ジークの本名が明らかになったことに対して、自分が受けてきた経験がひょいと頭をもたげてきました。
最初は詩女様の超常現象とか、超帝国騎士などと同様の「オーバーテクノロジーとしての何かがジークに組み込まれている」ような気もしていたのですが、これはそうではなくて、「あまりに偉大な始祖の名前を持ってしまった当人と周囲が抱え込んでしまった(ジーク本人にとっては)コンプレックス、(彼の本名を知る者にとっては)同じ名前を呼ぶことによる一種の自縛」ではないかという気がしてきて、ネタバレ感想にああいった付け足しをしました。
今回はそれに更に付け足しという形になります^^;なんというか読み直してみればとても面倒くさい感じもしましたけども(オイ!)、もしも差し支えなければお付き合い下さい。
今のところジークの本名を知るものは、恐らくそう沢山いるわけではないと思うのですけども…

※今回同名が連なると錯綜し大変分かりにくいので、ジークはあくまでジーク、フィルモア初代皇帝は映画ゴティックメードにならってトリハロンと表記させていただきます。

今月号のことを簡単に書いてしまうと
お母さん→息子は息子でなく…いや息子なんだけども名前が同じことで伝説の存在トリハロンを彼の中に見出してしまいすっかりなぞらえてしまっている。以前から元老院やバルバロッサ王家に対して憎しみを抱いており、普段はトリハロンの教訓に従う様に争わず耐えているがかつてそれで一度血を流したことがある。(それで第三者の命が奪われたのかもしれない。)
茄里→自分は自分なりに精一杯皇女やっているつもりだが、レジェンドである^^;トリハロンの教訓のようにならず絶えず血が流れている事に嘆いている。そして自分のような苦しい思いをせず偉大な名前と立場を捨て逃げてしまった(と思っているだけかもしれないけど…)ジークの行為に憤慨している。
ジーク→(その理由は何であれ)本名と自分の置かれた立場を捨ててしまった卑怯な人間であると自覚している。なので自分に代わってフィルモアの重たい荷物を現在背負ってくれている茄里に殺されてもやむ無し。自らの血だけで彼女が「流れる血を少しでも減らす努力をする」トリハロンの考えを引き継いでくれればそれで良しと思ってる。
こんな風に私には映るのですけども…

ジークは確か幼い時に「あの子が生まれたから家を出ていった」とフンフトに確認されています。
あの子→茄里なのはきっとそうですし、へっぽこブログで何回も書いていますが茄里がお母さんの娘なのは13巻カラー頁に書かれているのは間違いないのですが副読本などを読んでいると年表的なこと…お母さんの年齢などで色々不自然な点がある。
ここでちょっとおさらい。D4の個人年表が矛盾しておりあくまで私の見解でしかありませんが家を出ていった後の幼いジーク&ダイ・グがカイエンの挑戦を受けたのが2989年である(ロードス公存命中&カイエンにアウクソーがいないから)であるとなると、茄里が生まれたのはこの年か、その前年くらいになります。
ここでつまずくのが”フンフトがコーラスの王子ピアノ公爵との間に桜子を生んだことで引き起こした不祥事”でありD4では2961年と2974年両方での記載があることです。D4以前は2961年だったはずなのですが…(2016年の今頃へっぽこが書いた仮説風小説”玉座の露”は2961年説を取っています。)ところがジークと桜子は同じ2974年生まれになっており、これが果たして変わったのか変わってないのかでD5にあるショー・カムさんの話がだいぶ異なってきます。
いやどちらも正しいのだという、かなり強引ながらも桜子が今後「物語の膨大な時間を絶え間なく生き続ける存在、F.U.ログナーの主治医となる」という彼女の将来像から導き出したへっぽこ予想がこちらになります。
実はまだ物語に出てきていないピアノ公爵の立場が連載再開後に微妙に異なっている(メロディ家当主だったはずが王子になっている→ということは彼の母でありハリコン・ネーデルノイドの妹でもあるフォルテ・メロディが不祥事時は存命していたようなのです。)1つ言えるのはフンフトはフィルモア王家だけでなく、コーラス王家のお家事情にも絡んでいる可能性がある。と踏んで導き出したのが今度はこちらになります。D5のエルメラ王妃の記述からも…あ、これはブログに書いてないか。
(しかし今更なのですが、カイエンを呼んだのは剣聖慧茄のようですけども…自分の孫までが下手したら命を落とすかもしれないのにどうして彼女はそうしたんだろう?)
そしてジークとしてはトリハロンの姿勢を見習うあまりとにかく争いたくないという思いがあるらしく、そのことで剣を取らない、ファティマを娶らないことにもつながっている→加えて、左腕の傷までが先輩ヨーン・バインツェルに似ているよね。ということに今回なっています。
しかしヨーンとジークが似ているのはそこだけでなくて、一番肝心な点…自分に付けられてしまった名前と、偉大な初代皇帝が遺した言葉に影響されすぎて、ヨーンが騎士である立場と自ら向き合わないように、彼もそこから逃げているともいえるのではないか??という気がちょっとしています…

いや、ジークは生まれたときからトリハロンのような人物になりうると周囲から期待されてきたのだと思います。彼が今後なる皇帝名からも本来の家柄はどうも大変ふさわしいものみたいですし、偉大なトリハロンと同じ道を歩みたいと自ら思っているからこそ、赤ん坊の頃から剣を取らないことを自らに課しているのも確かです。
しかし、それがどこか卑屈というか…自分が何度も殺されそうになっても、茄里の存在が不自然であっても「それに対して憎んだり復讐をして血を流してはならない。どんなに辛くても争ってはならない」と云うのはどうなんだろう…
確かにトリハロンはゴティックメードの物語から剣を取ることも、GTMに乗って戦うこともやめてしまいましたが、剣の代わりに彼は「政の中での交渉事や外交などで…要は口と情熱^^;」を武器に周囲と渡り歩いた末、あの結果を導き出したわけですから、決して戦うこと自体を止めたわけではないように思います。ファイトが戦争ではなく、政治に代わっただけのことといいますか…。トリハロンが皇帝になるまでの17年間実際の血は流れなくともかなり熾烈で血の涙は流しっぱなしだったかも知れませんし。

それをジーク自身も気づいていますから冒頭の台詞になるわけです。
しかし彼に流れている血、与えられそうになった地位(茄里の台詞から、多分ジークが家を出なければ彼が皇子サイレンになっていた筈)、そして名前も1つの原因となり世に名を受けたときから自分の周りがあまりに騒がしく、争いが絶えないから自分さえこの場からいなくなれば争いが減る。ちょうど大人たちも納得してくれる?立場を代わってくれそうな人物も世にできたし…と茄里の誕生をどこかで汲み、(ある意味これこそ忖度、なのかも知れません。)彼は進んで名前を捨てフィルモアを去ったように自分には映ります。
それがどんなに酷い過程の中で生まれ、被害者が出ているとしても、自己犠牲さえすればなんとか丸く収まるだろうとジークは踏んだのでしょうか。

と書いちゃうのはさすがに酷?残酷??そうかもしれないのですが…。
でもね、D4でダイ・グの記述の中に「いけにえ~サクリファイスは本当は彼かもしれない」とあるのだけども、ジークが争いを避け名前を捨て家を出ていった行動が、周囲にとっても良かれと思ってしたことかもしれないけどもまた別の悲劇にスライドしているかもしれない可能性には言及しておきたいと思います。

そして「君の無念は僕の命で許しておくれ」なんてトリハロンは言わないと思うよ…彼も責任背負い込み気味でしたけど^^;それでも。
幼い茄里も茄里なりにトリハロンの掲げた理想と向き合っている。しかしそれを都合よく元老院の大人に利用されたりして上手く行かなかったりするから「私が帝国だ」と宣言しながらも泣き、ジークの言葉にトリハロンの姿を重ねてしまうのではないか。
ジークもまた逃げた責任を取って死の選択、ではなく自分の生まれてきた立場に改めて向き合う必要があるのです。
これはヨーンが…彼が将来ミラージュ騎士になるのは確定しておりますけども、そうなるためのステップとドラマ「デコースに復讐してもバーシャは自分の元へは帰ってこないことを、彼はとっくに気づいているはずだけども改めて見直し、騎士として生きることとは何なのかバーシャの教えと対峙すること」と同様の物語…「自分の名前を捨てたとしても全くどうにもならないことを自覚し、トリハロンと同じ名前を付けられたことと向き合い、その中でも自分の生きる道を模索していく。」
こういったドラマがやがては将来の”サイレン・ブラウ・レーダー9”(ゴメンナサイ名称は適当です^^;)に連なっていくのではないかと。
そういう点が、ヨーンとジークで最も似ているところではないかという気がしています。

折角彼も…ジークはとても優しいから兄のように慕う皇帝ダイ・グのチカラになりたいと心から考えているし、あまりに大きな存在を投映しプレッシャーをかけてくるお母さんのことも決して嫌いじゃないし、名前を捨てたにも関わらずカラミティ星の事態を憂慮したりと、離れた所で色々考えたりしているけども、傍観者ではなく当事者として動かなくてはならないのかも知れません。あまりに重たい課題ですけども…

最後に「ジークのことでふと思い出した個人的経験」について。
私は結婚して現在の「あんまりない名前」になりましたが、かつては「ごくありふれた苗字と名前」だった為何処の学校でも必ず同姓同名の方が同学年にいらっしゃいました。
その方たちとは同じクラスになることは一度もなかったのですが(学校側としては区別付けたいでしょうから当然ですけども)それでも、全く同名の方がご活躍され学校で度々表彰されたり、周囲からも大変慕われている風で人気者だったりするのに一方私は…と同姓同名に突きつけられ、羨むばかりか、同じ名前じゃなきゃ良かったのにと幼い時に何度考えたか分かりません。
でも比べても比べられても自分は自分でしかないのです。相手がいくらスポーツ万能で優秀だったとしても、彼女に学ぶ所はあったとしても同じ生き様である必要はない。
どんなに境遇が似ていて、存在に憧れそのように有りたいと思ったとしてもトリハロンはトリハロンであり、ジークはジークの人生があるとご自身もお母さんも気がついてほしいなと心から願っております。

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